3 おもろうて やがて悲しき 鵜舟かな
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「おもろうて やがて悲しき…」
最近は小説よりも詩歌が熱い。
というのも、先日の動物園にいった件以降どことはない寂しさがあるからだ。
例えば、芭蕉の句にこんな歌がある。
おもろうて やがて悲しき 鵜舟かな
「おもしろくて、だからこそ悲しい、ああ鵜舟よ」。直訳すればこういうこと。「おもしろくて、だからこそ悲しい」とはどういうことか。これは、「鵜舟」を他のことと代替してみればわかりやすい。
おもろうて やがて悲しき 花火かな
賑やかな夏祭りはとても楽しい。クライマックスとして花火が打ちあがる。楽しさの最高潮にあるはずのそのさなかに、ふと、祭りの後のひとりの部屋が思い浮かび、そこにある空虚に圧倒される――。
ここで、現代のシンガー・MOROHAの「革命」を見てみよう。
そういやさ 飲み会の帰り道、突如やってくるあの虚しさ……、あれなんだろう
ね? あれやばくね?…… 胸、痛くね……?
これもまた、「おもろうて やがて悲しき 飲み会や」と言い換えることができる。
現代人が抱えるこの悲しさは、一言で言えばハレとケとの落差によるものだ。
当然だが、いくら現実が充実していても、ハレがあればケは物足りなくなる。しかし、その落差には違いがあるだろう。我々は肥えた世界に生き、充実しているはずの「当たり前」のレベルの高さから、簡単には満足できないケに生きているのだ。
現代のシンガー、高橋優の「leftovers」にこんな歌詞がある。
「腹減ってないけど 食べようと思えば食べれる」とか言いながらブランチ
この状況のぜいたくさを意識する日本人は、多分そんなに多くないのではないか。餓死寸前で食い悩んでいる人間は、世界を見ればたくさんいる。しかも、朝食でも昼食でも夕食でもない、娯楽としての食事=ブランチ。たった一行の詩に、それだけの意味を込めることができるのだ。
現代の飽和状態から脱することが、肥大化する「おもろうて やがて悲しき」の感情を抑え込む術になるのかもしれないと、先日から思っていた。
だがふと、こんなことも思う――はじめから友人などいなければよかったのかも、と。阿良々木暦ではないが、この「おもろうて やがて悲しき」を思うとき、まさに人間強度の脆弱さを感じるのだ。
このように考えてゆくと、きっと「おもろうて やがて悲しき」の感情からは、人間は逃れられないのだろうと思う。つまり、飽和状態から抜け出すために節制をすることはケへの不満足感をあおることになるし、逆に満足であるためにハレ状態を維持しようとすると、こんどはぜいたくな価値基準がハレをハレであると認識しなくなる。
だから我々は、人生を歩むうえで、どうしても悲観主義的な考え方を成してしまうのかもしれない。
そして、そんな悲観が、ハレとケの間に生まれた断絶が、文学をはじめとする諸芸術を生み出したのだろう。
おもろうて やがて悲しき 東口
これはamazarashiの歌の題名だが、以上のことを踏まえると、どんな活動をして、どんな楽しみを見出しても、――たとえそれが「東口」というケの中であっても――どこかい悲しさを感じながら生きていくことになるということを伝えているのかもしれない。